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カラスが空から落ち、ネコやイヌがおどるようなかっこうで海に飛び込んだのが、水俣病のはじまりでした。そして、子どもや年寄り、そして働きざかりの漁師まで、手足がしびれてけいれんを起こしたり、目が見えなくなったり、歩けなくなったりしました。痛みやけいれんで意識をなくし、うめき声をあげて亡くなる人もいました。
胎児性水俣病といって、お母さんのおなかで病気になった赤ちゃんも生まれました。公害病は、生まれてくる新しい命まで病気にしてしまいます。
脳や神経を病気にする水俣病のすべては、まだわかっていません。症状は全身にあらわれ、水俣病であることがなかなか理解されず、苦しんでいる患者もいます。
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水俣病は、チッソ工場の排水が海に流されたことで起きました。アセトアルデヒド工程というビニールの原料をつくるなかでできた有機水銀を、そのまま排水として、海に捨ててしまったのです。 海にひろがった有機水銀は、貝や魚など生き物のからだに入って、さらにそれらをエサにした大きな魚のからだに入り、最後に人間が食べることで、人間のからだに集まり、水俣病になりました。 つまり、排水で環境をよごし、食べ物のつながり(=食物連鎖)を通して、そこに暮らす人間を病気にしたのが、水俣病です。
水俣病は、空気でうつったり、病気の人に触れてうつる病気ではありません。海の恵みをよろこび、魚をたくさん食べる漁師や海の近くに暮らす人たちが、いちばん早くひどい水俣病になりました。
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人の体に入った有機水銀は、おもに脳や神経などをおかします。こわされた脳や神経の細胞は、今のところつくりなおすことができません。頭が痛いときは頭痛薬、熱があったら熱さましとそれぞれの症状を軽くするような治療しかありません。
水俣病の原因がはっきりするまで、長い時間がかかり、きちんとした調査や検診がなかったことは、水俣病の治療を遅らせました。患者は、その症状さえ理解されず、つらい思いをしています。家族やまわりの人たちの思いやりと、優しさが、そうした患者をささえているのです。
治せない病気を前にして、わたしたちは何ができるでしょうか。
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チッソという水俣にある大きな化学工場でした。そこでは、たくさんの人たちが働き、水俣はチッソのおかげで栄えていました。 チッソは、排水の中に有毒な有機水銀が含まれていると気づいてからも、そのことを隠して流すのを止めませんでした。国や熊本県は、チッソの排水を調べようとはせず、人々が魚を食べるのを止めることもしませんでした。日本の国全体が、くらしが豊かになることをいちばんに考えていて、海を守るよりお金儲けをだいじにしたのです。
排水がとめられ、チッソはその責任を問われ、患者の補償や埋め立てなどたくさんのお金を支払わなければならなくなりました。
チッソには、国や県から助けがなされ、今もトップレベルの技術力で工場は動きつづけています。私たちの生活に身近な塩化ビニール製品や液晶などを生産しています。 |
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約2000人・・・国や熊本県から水俣病と認められた 患者の数です。 約2万人・・・・・水俣病と認めてほしいと求めていた患
者の数を足したものです。 約20万人・・・有機水銀を含んだ魚介類を食べた住人の数です。
水俣病であるかどうかを認める基準はあいまいで、同じものを食べ同じ暮らしをしている家族の中で、認定されている患者と認定されていない患者がいるほどです。 いつから水俣病がはじまり、症状がどんなになるか、十分な調査や検診は行われていません。患者が何人いるのか、誰にもわからないのです。
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魚がとれなくなり、水俣病の苦しさに貧しさ、はげしい差別とイジメで、患者とその家族は本当につらい目にあいました。そして患者たちは、チッソに償いを求めて裁判をおこしました。
また、自分たちを襲った水俣病の意味を深く受け止め、公害病の過ちを二度と繰り返さないために、世界の人たちに伝える活動をしたり、水俣病の体験を広く訴えたりする患者もいます。
水俣病の苦しみを家族のきずなと愛情で支えあった体験は、私たちにとっても、「宝もの」となりました。
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水俣病は、新潟でも起きました。新潟水俣病は第二水俣病とも呼ばれて、九州の水俣病と、イタイイタイ病(富山県・神通川の流れているところでおきたガドムウム汚染による公害病)と四日市ぜんそく(三重県・四日市市のコンビナートによる大気汚染による公害病)とならんで、日本の4大公害病のひとつです。 新潟県を流れる阿賀野川の上流に昭和電工という工場があって、水俣とまったく同じアセトアルデヒド工程の中で有機水銀をそのまま流したことで起きました。もし、熊本県の水俣で水俣病が起きたときに、日本中の工場を調べて、排水を止めていれば、防ぐことができた公害病です。 それぞれくらし方はちがいますが、その土地の恵みを受け、それを大切に暮らしていることは同じです。 新潟の人たちも、熊本・水俣の人たちも川や海からもらった暮らしを大切にして、水俣病のことを忘れないで暮らしていこうとしています。
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水俣病は、いまもつづいています。
水俣で病気になり、生活が苦しくなった人たちの中には、ふるさとの水俣で暮らせなくなって引越しをしなければならない人もいました。引越しした先では、水俣病のことが知られていず、水俣病であることも認められなくて、国や熊本県からの救いもありませんでした。そこで、関西に引越しした患者は、国や熊本県の責任を求め、水俣病と認めて助けてもらうために、裁判を起こしました。
1982年に裁判は始まり、2001年に大阪高等裁判所が患者の訴えを認め、2004年最高裁判所も国と熊本県の責任を明確にしました。この判決に勇気を得て、言い出せなかった患者が名乗りをあげたり新たに裁判を起こしたりしています。いまも患者が救われないでいることは、水俣病がつづいていることと同じではないでしょうか。
世界中をみてみると、カナダやブラジル、中国や東南アジアで、新しい環境汚染のために病気になる人々が生まれています。世界中から水俣病をなくすために、一番初めに水俣病を体験した私たちが、責任をはっきりさせて、水俣病をくりかえさないようにしなければなりません。
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「水俣」の自然を、「水俣」の暮らしを知ってください。 「水俣」で起きた病気を知ってください。 「水俣」の人々がどのように苦しみ、悲しみ、そして、勇気と愛情で生きようとしているかを知ってください。
そして、そのあと、「水俣」というところに、あなたの暮らす町の名前をいれてみてください。 そうすると、「水俣」が私たちのくらす「ここ」のことで、「いま」のことだと気づき、「いのち」の意味を伝えてくれるのがわかってきます。 それは、いまと未来を生きようとするすべての人々にとって、「宝もの」ではないでしょうか。
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水俣では、あまなつだけでなく、お茶やサラダ玉ねぎなど、さまざまな農産物をなるべく農薬を使わず生産し、また、イリコなどを加工するときも無添加にする努力がつづけられています。それは、水俣病患者が「ひとに毒を食わされた者は、ひとに毒を食わせられん」と決意しているからです。
水俣病のようなこんなつらい思いを他の人にさせたくないと私たちの健康を思いやってくれる患者さんと出会って、私たちは、水俣病事件の事実や患者の思いにふれることができるようになりました。
水俣病患者のメッセージを届けてくれる産物があまなつなのです。
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